淀川・明治大洪水(1885年)
明治18年(1885年)、6月中旬から7月初旬にかけて、発達した低気圧が相次いで大阪を襲いました。
枚方の三矢、伊加賀で堤防が決壊したのを最初に、淀川は洪水によって堤防が次々と決壊。これにより、府下の北・中河内郡、東成郡及び大阪市街の約15,269町歩(15,142ha)、当時の大阪府全体の世帯数の約20%となる約71,000戸が最大13.3尺(約4m)浸水し、家屋流失約1,600戸、同損壊約15,000戸という甚大な被害に見舞われました。
大阪市内では大阪城~天王寺間の一部高台地域を除くほとんどの低地部が水害を受け、被災人口は約27万人。八百八橋とうたわれる大阪の橋は30余りが次々に流失し、市内の交通のほぼ全てが寸断されたため、市民生活は困難を極めました。当時、大阪は東京に次ぐ第2の都市として、急速に成長していた地域でしたが、度重なる淀川の洪水は、人々の暮らしや経済活動に大きな影を落とし、ことさら明治18年のこの水害は、あらゆる面で莫大な被害を与えました。
この水害をきっかけに流域では、抜本的な淀川の改修に向けた機運が急速に高まりました。(国土交通省 近畿地方整備局)